『正見』について ありのままに見るという努力

お釈迦様の教えの一つである、「正見」
正しく見ると書いて「正見」という教えについてお話しさせていただきます。
「正見」とはどういうことかというと、「物事をあるがままに見る」ということです。
私たちは生きていて、物事を偏見や思い込みのまなこで見てしまってはいないでしょうか。
偏見や思い込みに振り回されてしまうことで、
私たちは自分自身を、そして他人をも傷つけてしまうことだってあるのです。
ですから偏見や思い込みを排し、
物事をあるがままに見る、ということはとても大事なことなのです。

「正見」の大切さを考える上で、一つ私の経験をお話しいたします。
私は僧侶になる前、ある会社で営業の仕事についていました。
営業を始めて一ヶ月くらいがが経った頃、自営業をされている五十代の男性が
お客さんになってくれました。ここでは仮に田中さんと呼ばせていただきます。
田中さんは無口で、しかも無愛想な人でした。商品だけに関心があるのかな、
私はそう考え、お会いするたびに丁寧に商品のご案内をしていました。

さて、数年して私は僧侶になるため修行に行くことにしました。
田中さんに退職の挨拶をしたところ、血相を変えて、
「本当かね。君とはとても面白く付き合わせてもらった。
世話になったお礼をしたいので食事を奢らせてくれ」
そうおっしゃって、数日後に夕食をご馳走になりました。そこで驚いたことがあります。
普段は無愛想な田中さんが、食事を共にするととてもにこやかにお話しをされるのです。
家族のことやプライベートなことについて、楽しそうにお話されます。

田中さんの無口で無愛想な態度から、私は田中さんのことを誤解していたようでした。
その無口で無愛想な外見から、他人にはあまり興味のない人、
という身勝手な偏見や思い込みにとらわれてしまっていたのです。
しかし退職間際になって、それは間違いだったと気付かされました。
私はこんなことなら商品の話だけでなく、もっと親しい会話をするよう、
心がければ良かった、そう今更ながら後悔しました。
田中さんと豊かな時間を過ごす可能性を、
偏見や思い込みによってみずから狭めてしまっていたのです。

では、偏見や思い込みを拭い去るため、私はどうすれば良かったのでしょうか。
それは最初から「こういう人」と決めつけてしまわずに、まずは誰とでも同じように
接していれば良かったのです。自分自身が誠実な姿を見せ、しっかりとやりとりを行うことで
相手も真の姿を明らかにしてくれるのです。
その過程そのものがありのままに物事を見ようとする努力なのだと思います。

このように「正見」、ありのままに物事を見るためには、自分自身もまた、
嘘偽りなくありのままである必要があると思います。
まずは自分自身が嘘偽りでおのれを覆ってしまっていないか、
確認する努力が必要ではないでしょうか。
自分をじっくりと眺める眼差しを持つことから、
「正見」の教えを実践する努力をして参りましょう。