心の持ちもの

今回は「心の持ちもの」と題してお話をさせていただきます。

「人の心はわからないものだ」などと、よく言います。
考えてみますと、我われ人間以外の動物たちは、喜びや悲しみ・怒りといった感情を、
そのまま行動や表情、あるいは鳴き声などにして表します。

ところが人間は、うれしい時も悲しい時も、また悔しい時も、
心の中で感じていることとは違う表情や行動であったり、
時には気持ちとは正反対の言葉を使ったりすることがあります。
それは意識してそのようにしている場合と、無意識のうちにそうしている場合とがあります。
人間ならではの特徴といっていいでしょう。
つまり、表向きの表現と心の中は必ずしも一致しているわけではないということです。
だから「人の心はわからない」となるのです。

最近、「人の心はわからない」とは、ほかの人のことばかりではなく、私にとっても、
自分自身の心も同じだと感じさせられる出来事がありました。
その日は夜に、お檀家さんのお通夜のお勤めに行くことになっていました。
私は、いつものようにお経に続けて【御詠歌】という歌をお唱えするつもりでした。
その日の昼間にお会いした地域のある方から、
「和尚さん御詠歌が上手かもんね。今日のお通夜のお唱え、楽しみにしとるけん」
と声をかけられました。
私はたいして気にも留めず、夜になりお通夜のお参りに行きました。
ところがその日の御詠歌は、自分でも恥ずかしくなるほどにひどいお唱えになってしまったのです。
帰りの車の中で「なぜ?どうして?」と考えてみましたが、わかりません。
一晩冷静になって思いをめぐらせ、あらためて自分を見つめてみると、
腑に落ちる答えにたどり着きました。
それは【お通夜の席に持っていくもの、心の持ちもの】が違ったということでした。
あの日私は、お通夜の席に
【亡くなられた方の冥福を祈る気持ち・ご遺族に寄り添う気持ち】ではなく、
【上手にお唱えしよう・誉めてもらおう】という気持ちを
持って行ってしまったのです。

自分の心であっても、それをコントロールすることは簡単ではありません。
様々な感情や思いが、思わぬ方向に私たちを引っ張って行ってしまうことがあります。
この度の出来事が、私自身の心もまた「不安定で、わからないもの」
であることを教えてくれました。

私たちは日々の生活の中で、いろいろな場面に臨む機会があります。
お祝いの場もあれば、お弔いの場面もありますし、地域の集まりや仕事上の集まりなど様々です。

その場に合わせて服装を整えたり、忘れ物をしないよう注意を払うことも大切ですが、
何より大事なことは「心の持ちもの」を忘れぬこと、間違わぬことではないでしょうか。

出かける前の身支度の一つとして「心の持ちもの」が整っているか確認すること、
これが【コロコロと移ろいやすく、不安定な私の心】との上手な付き合い方であり、
心を整えることだと思うのです。

私たちに与えられた【限りある命の時間】がより良いものとなることを願っています。