「恩」

八月十五日は終戦記念日にあたります。
この八月の時期になると田舎のお墓参りにおもむきますが、
そこの墓地には戦没者のお墓が一列に十九基ならび、
いつもきれいに清掃されているのです。
その中に親戚のお墓が2基有るのですが、残された遺族は高齢になり、
今は施設にお世話になっています。

戦争でお亡くなりになった方が生きていたならば、
残された方にどんな生活があったのだろうか。
もし、亡くなった方が生きていて家族をもっていたならば、
子や孫に囲まれた生活があったのではなかろうか。
一人ぼっちでない生活があったのではなかろうかと考える機会がありました。

以前、戦没者遺族の戦争のお話をテレビで拝聴する機会がありました。
その中で印象的だったのは、「戦争の事を知る努力をしてほしい」と訴えていた事です。
その時に、知覧特攻平和記念館に行ったときの事を思い出しました。
記念館行きのバスに乗り遅れていたら地元の方が、
是非見学していって下さいと親切にも車で送ってくれたのです。
そこには、多くの特攻隊の方が家族に残した遺書が展示されていたのです。
文面から家族を残して戦地におもむく心情が伝わってくるものでありました。
そこに書くことが出来ない心情もたくさん有ったのだと思われます。
地元の方が、身も知らずの私をわざわざ送ってくれた理由がわかったのです。
「この事を知ってほしい」
「手紙を見て感じほしい」と願ったのでしょう。
こうした多くの亡くなった方々の延長線状の先に
私達の「生」の幸せがある事に気づかされた出来事でした。
その事を考えると深い恩を考えさせられます。

仏教では「恩」について教えが有ります。
少しその事に触れてみましょう。
「恩」という文字は、原因の下に心という字を書き、
原因を心に留める事を意味します。
つまり、現在の「私」の存在を考え、育てて下さった因(もと)を知る心なのです。
自分の生命を知り、家族、地域、社会の仕組みを知れば、「恩」にゆきあたります。

我が国に、欧米から権利、義務の思想が入って生活が豊かになりました。
ところが、近代では、権利を主張し、義務を忘れるという、
身勝手な行動が蔓延するようになったように感じられます。
物が豊かになリ、生活が良くなるにつれ、主張が当たり前になり、
してもらって当たり前の風潮になり、「恩」を忘れるのです。
残念ながら、当然だと思う気持ちには感謝の念は湧きません。
権利、義務には他への強い要請がありますが、「恩」は自覚するものだからです。

人間は、一人では生きていけません。たくさんの、人や物に支えられて生きて生けるのです。
だからこそ「恩」という力に生かされていることに気がつき、自覚する事が大事なのです。

時代が変わるにつれ、考え方も様々ですが、
多くのお陰様の延長線状の先に私達の「生」が有ることを忘れてはいけないのです。
自分の為だけに生きるのではなく、他の為に生きて、
自分をも生かす生き方こそが多くの「恩」に報いる事なのです。