「布施とは」

わたくしたち曹洞宗の開祖であります道元禅師様は修証義というお経の中に
みんなで人生を暮らすために4つの大切な教えがあるとお説きになられています。
一つには布施、二つには愛語、3つには利行、4つには同事。
この4つがそなわっている者こそ尊い菩薩である。
今日はその中の一つである布施についてお話をさせていただきたいと思います。

さて布施と聞いて何を思い浮かべるでしょうか?
大半の方々は僧侶に支払う謝礼であったりお金を連想される方が多いのではないかと思います。
しかしながら布施という言葉はそれだけのことではありません。
道元禅師様は布施とは与える者、与えられた者お互いが爽やかでなければいけないまた、
それは財施だけでなく法を説くことも布施の一つであるとお説きになられています。

もう十数年ほど前の話になります私が修行を終え、
北海道のお寺で働いているころのお檀家さんとの話でございます。
北海道では月参りと言ってそのお宅で一番新しく先祖になられた方の
月命日にお参りに行く風習が強く習慣づいています。
ある仲睦まじく老夫婦で過ごしているお宅でした。
ある朝、「何々さんところのおじいちゃんがなくなったよ」と聞き枕経に行き、葬儀が終わり、
四九日が過ぎ二か月ほどたったときおばあちゃんどうしてるかなっと思っていました。
百か日のお参りの際、やはり一人でいらっしゃいました。しかしなぜか生き生きと見えたのです。
お参りが終わりおばあちゃんと話をしてみるとやはりどことなく楽しそうに見えました。
私も当時20代半ばの若い頃でしたから実は二人でいるのが嫌だったのかなとか
保険金がとかいろいろな憶測をしてしまったのですが、
少ししますと玄関が開き小さなお子さんが駆け足で入ってきました。
玄関をあがるがいなや仏壇の前に座り手を合わせ礼拝をしていました。
「おじいちゃんがなくなった後から近くに住んでいる孫が毎週土曜日には
必ず来てくれて仏壇に向かって手を合わせてくれるんですよ」
とお聞きしました。最初は両親から言われて行ってきたのかもしれません。
それでもその行為が習慣づきおばあちゃんにとっては尊い姿として映っていたのだと思います。
まさにその姿が無財の七施の一つである身施としておばあちゃんに
与えられているから生き生きとして映っていたのだと確信をしました。

布施とはくれてやったとか、やってやったという考えでは布施の精神として成り立ちません。
見返りを求めずさせていただけるありがたさを感じれるものが布施に繋がっていき、
それを実践していくことがより良い社会を創ることに繋がっていくのではないでしょうか。

ご清祥ありがとうございました。