同事~ただひたすらに種をまく~

曹洞宗のお経に「修証義」というものがございます。ご法事などでよくお唱えされますので、聞いたことのある方もいらっしゃるかと思います。その中で菩薩が生きとし生けるもののために行う四つの行いを説かれています。

 

その行いとは「布施・愛語・利行・同事」の四つでありまして、これを「四摂法」といいます。修証義では、この「四摂法」こそが私たち仏教徒の行うべき修行であり、生き方であるとお示しされています。本日はその中の「同事」についてお話させていただきます。

 

同事とは同じ事と書いて同事と読みます。意味は簡単に申しますと「相手の立場になって考える。相手の気持ちに寄り添い、それを分かち合う」といったところではないしょうか。

 

「相手の気持ちになって考えましょう」とか「思いやりをもちましょう」といったことは、ご家庭や学校、社会生活の中で教わることですし、皆様も意識せずとも生活の中で実践されていることも多いと思います。例えばお子さんから楽しいお話を聞いたとき「うれしかったね、よかったね」と声をかけたり、友人の悩みを相談されたとき「大変だったね、苦しかったね」と同調したりすることも立派な同事の行いです。

 

ですがこの同事は、見ず知らずの人や、自分と異なる立場・考えを持った人と接するときには少々難しいと感じられるかもしれません。自分は相手の気持ちが分かったつもりであっても、それが勘違いであったり、相手の立場になって良かれと思って言ったこと・したことが相手にとっては有難迷惑になってしまったり、違う形で受け取られてしまったりという経験は誰しもがおありになるのではないかと思います。

 

私も、お葬式やご法事で、ご家族を亡くされたお家の方に接することや、災害ボランティアなどで被災地の方々と接することがありますが、ときには悲痛な様子に声もかけられなかったことや、あとになって「自分の言動で相手を傷つけてはいないだろうか」と不安になったり、後悔したりといった経験も何度もございます。

 

良かれと思って起こした行動がうまくいかないとき、私たちは「自分の力が足りないのだ」と無力感に陥ったり、努力しても変わらない状況に苛立ったりしてしまいがちですね。そして、そのような状況が続いてしまうと「相手の立場になって考えること、相手の気持ちに寄り添うこと」そのこと自体が重荷になり、ときには苦痛に感じてしまうこともあるかもしれません。

 

私もそのような気持ちに陥った経験があるのですけれども、そんなときにふと、修行中にかけられた言葉を思い出したんですね。それは坐禅についてのお言葉だったのですが、「坐禅とは悟りを得るための手段ではない、坐禅の目的は坐禅そのものだ。坐禅をする姿 そのものが仏の姿であり、悟りの姿である」というお言葉でした。私はこのことが同事にも当てはまるのではないかと思ったんですね。

 

つまり、それまで私は知らず知らずのうちに「同事」を相手の悲しみや苦しみを解決するための手段として行っていたのではないかと気付いたんですね。ですからその手段がうまくいかないときには、不安になったり、重荷に感じてしまっていたんだと思います。

 

ですが今は、同事とはたとえ思うような結果がでなくても、問題の解決には至らなくてもいいのだと思えるようになりました。「相手の立場になって考え、相手の気持ちに寄り添おうとすること、分かち合おうとすること」その行い自体が目的であり、それを続けていく姿が菩薩の姿だと気付いたんですね。

 

「結果を求めずにただひたすらに種をまく。そうすれば、おのずと花は開き実を結ぶ。」そんな姿勢が同事を行ううえで大切なことなのではないでしょうか。