無常に生きる

皆さんは、今大切にしているもの、大事に考えているものはありますか。そして、それを失ったり無くしてしまい後悔をする。なんて経験をされたことがあるでしょうか。
先日、父の7回忌の法事を行いました。兄弟や親戚が集まり無事に終えることができました。6年経った今でも、亡くなる瞬間の父の顔を思い出します。その日は、実家に帰り両親と過ごしました。久しぶりの実家ということもありお互いの近況報告や美味しい食事を頂きました。 楽しい時間はあっという間に過ぎ去るもので、そろそろ就寝をしようと、床に着いてしばらくすると、父と母が話をしている声が聞こえてきました。
そのうち言い合いをしているようで、気になり2人のところへ行くと父の体調が思わしくないとのことで、救急車を呼ぶ、呼ばないので話をしていたようです。 父は横になっていれば良くなる。の一点張り、母はなんとか父をなだめようと話をしていました。 父は今までにも数回、脳梗塞を患っていたのでかかりつけの主治医にも何かあればすぐ病院にくるようにと言われていたからです。
最初は私も父がそういう風に言っているのだからと、母と話をしていましたが、時間が経つにつれて父の顔が青白くなっていくのをみるとこれはただごとではないと思い、なんとか父を説得し病院に連れていくことにしました。病院につくと、父はさらに顔色が悪くなり病院のベッドに寝てすぐに苦しそうな表情から呼吸が止まってしまいました。私も母も何が起こっているのかが理解できないまま時が過ぎました。
病院の先生や看護師さんは処置をほどこしてくれましたが、回復の兆しもないままにそのまま父は逝ってしまいました。
こんなにも人の命はあっというまに終わってしまうのかと。頭ではわかっていてもその瞬間はそこにある現実を受けとめられませんでした。
お釈迦さまはこの世を「無常」と説かれました。同じ場所に留まらずに常に変化していくのが世の理であると。また道元禅師は幼い時に母の死に目にあい無常を感じた。とおっしゃられています。父が亡くなってからは私も母も、父に申し訳ないことをした。もっと何かできたのではないかと悔やむ日々を今も送っています。私たちは今あるものが、永遠に目の前にあるように思います。しかしそうではありません。目の前にあるものは常に変化し、いつ無くなるかもしれないものであります。ついつい永遠にあるような錯覚を起こします。道元禅師はさらに、無常によって道心を起こしたといわれています。
この世は、無常だからこそ菩提心(仏道を求める心)を起こして、仏道修行を専一にしなければならないと諭しています。
私は、父の7回忌をとおしてその言葉を改めてかみしめました。無常の中に生きているからこそ仏さまの教えをいただき、いただいた教えを実践することが、常にありつづけるという錯覚してしまう私たちの目を覚ますのではないでしょうか。