手を合わせて、いただきます。
昨年から、私たち日本人が大好きなお米が高くなりました。異常気象による不作、農業構造の変化、国際情勢など様々なことが絡み合った結果、このような状態になってしまいました。
「令和の米騒動」とまで言われるようになりました。
日本人の主食である米。このような状況になって、改めて、今までが恵まれていたのだなと気づくことになりました。
忙しない現代社会。食事に時間をかけることはしない、コスパ(費用対効果)やタイパ(時間対効果)が良い方を選んでいるという人は多いと思います。しかしながら、それは本当に良い生き方といえるのでしょうか?
私のお寺では、家族とご飯を食べる前に必ず行うことがあります。
それは、手を合わせ、「五観の偈」というお唱え事をしてからご飯を頂くというものです。
「五観の偈」とは
一つには功の多少を計り 彼の来処を量る
(食材の命の尊さと、かけられた多くの手間と苦労に思いをめぐらせよう)
二つには己が徳行の 全欠を(と)忖って供に応ず
(この食事をいただくに値する正しき行いをなそうと努めているか反省しよう)
三つには心を防ぎ過を離るることは 貪等を宗とす
(むさぼり、怒り、愚かさなど過ちにつながる迷いの心を誡めていただこう)
四つには正に良薬を事とするは 形枯を療ぜんが為なり
(欲望を満たすためではなく健康を保つための良き薬として受け止めよう)
五つには成道の為の故に 今此の食を受く
(皆で共に仏道を成すことを願い、ありがたくこの食事をいただきましょう)
この五つの項目のお唱え事が「五観の偈」。
今、自分の目の前にある食事。どれだけ多くの人が関わってきたものか、手間と苦労を考えてみる。その人たちの思いに答えられる人間であるのか、自分自身を見つめ直し、お釈迦様のみ教えを学び、行動に移していくことを誓い、心穏やかな毎日を過ごせるよう感謝していただく。
さて、皆さん、昨日の晩ごはんは何を食べましたか?一昨日?三日前は?急に聞かれるとすぐには答えられないかもしれません。時間がなかったから慌てて食べた。テレビを観ながらだったからあまり覚えていない。色んな理由はあると思いますが、食事の大切さというものを、今一度考えてみてください。
食べ物としっかりと向き合い有難く頂くことは、自分と向き合うことのできる修行なのです。
福井県にあります大本山永平寺を開かれた道元禅師様は「生活全てが修行である。」とお示しになられました。
食事も修行。食べる修行なのです。
大本山永平寺での食事は「食べる修行」ということを私自身が実感しました。
畳の上に坐禅をして、応量器という自分専用の食器を広げ食事をとります。
器を置く場所、置く順番、食前・食後のお唱え事全てが決められています。その他にもたくさんの作法があり、覚えて、慣れるまでが大変です。一つ一つの事を作法に則り、丁寧に行うので、食事の時間は一時間ほどかかります。
普通であれば、五分、十分で終わる食事をゆっくり時間をかけて頂くと、色んなものが見えてくるのです。「今日の煮物のニンジンは甘いなあ、みそ汁の香りがいいなあ。」食材一つ一つを味わえる喜びを知ることができます。そして、食材の命を頂いていることを深く思うことで、自分自身がその命を無駄にしない生き方をしなければならないと強く感じるようになります。
これからも私たちの食生活は変化し続けるでしょう。でも根本は変わりません。
命を頂き、感謝して生きる。
人に良いと書いて「食」。人に良いものを食べて、良き人になりましょう。