『一粒のいのち』

季節は秋になりまして、美味しい新米が店頭に並ぶ時期になりました。お米に関して、私は修行道場で出会った和尚さんを思い出します。「典座(てんぞ)」という修行僧に食事をつくる役目の方でした。私達は親しみをこめて、いつも「典座おっさん」と呼んでおりました。

入門間もないある日のことです。昼食が終わり、すぐに片付けと夕食の準備に取り掛かります。「智道さん、炊飯ジャーを洗って」私は、お釜を流しに運び、中に水を入れ、中についている米粒をとり、その水を排水溝へザバーっと返しました。すると、横で野菜を洗っていた典座おっさんが、「おい、何をしているんだ」と大きな声をあげました。私はびっくりしました。続けて、典座おっさんは、流しの隅を指さし、「そこにザルがあるだろう。中身はそこに返すんだよ」と言いました。典座おっさんが指さす方を見ますと、確かに古いザルが置いてあります。よく見ると米粒が入っています。なぜこのようなことをするのだろう、と理解できていない私に対し、「夜の片付けが終わったら、先輩に連れていってもらえ」とだけ言って、再び夕食の準備に取り掛かりました。

 

夕食の片付けが終わりますと、先程の米粒が入った古いザルを持ち、私は先輩に連れられてお寺の敷地内にある池に向かいました。そしてザルの中に集まった米粒を池の中へと投げ入れたのです。私達が部屋に戻ると、典座おっさんが話をしてくれました。「智道さん、なぜだかわかったか。あの池には

魚や亀がいるだろう。その魚や亀にあげているんだ。私達が頂くことができなかったお米一粒一粒もいのちなんだよ。いのちを大切にするということは、いのちを活かすということなんだ」

 

私は、これまでご飯を食べる時、お茶碗の中には一粒も残さないようにとだけ気を配っていたのです。お釜についた米粒が何粒残っていようとも、全く気を配っていませんでした。お茶碗の中の米粒とお釜に残った米粒を全く別のものとして扱っていたのです。お茶碗の中の一粒も、お釜に残った一粒も

、どちらのいのちにも違いがない、ということを私は気付かされたのです。

仏道修行とは、何も特別な行いではありません。日々の生活の中で、例えば「一粒のお米も無駄にしない」「感謝の気持ちを持って食事をいただく」というように、自身の行いを一つ一つ丁寧に行うことも大切なことなのです。口で言うのは簡単ですが、行っていくこと、続けていくことは難しいものです。皆さんも日々の生活の中においても、自分の行いを見つめ、全てのいのちに心を配りながら、共に仏の道を歩んでまいりましょう.