11月になり、九州もようやく秋らしい、穏やかな季節になりました。

空気が澄み、木々が色づき、朝夕の冷え込みに季節の移ろいを感じます。

この時期、旅行やスポーツなど、行楽を楽しまれる方も多いのではないでしょうか。

私もこの季節がくると楽しみにしていることがあります。それは「キャンプ」です。

コロナ禍をきっかけにキャンプが大きなブームとなりましたが、私もその魅力にすっかり惹かれた一人です。

秋のキャンプは、虫も少なく、真冬ほどの防寒もいりません。

外でご飯を食べたり、テントの下で本を読んだり、ただ自然の中でゆっくりと過ごす。

日常の忙しさから離れ、何もしない時間を楽しむことができます。

そして何より、キャンプでの一番の楽しみは「焚き火」です。

夜の帳が降り、パチパチと音を立てて燃える炎。

その揺らめきを眺めていると、不思議と心が落ち着き、呼吸が深くなっていきます。

頭の中の雑念が少しずつほどけていき、言葉にできなかった思いも、焚き火越しなら素直に語れる気がします。

私たち人間は、何万年も前から火とともに生きてきました。

もしかすると、火を見つめると心が安らぐのは、太古の記憶が私たちの中に刻まれているからかもしれません。

しかし、仏教では「火」はしばしば「煩悩」のたとえとして説かれます。

お釈迦さまは「一切は燃えている」と説かれました。

眼も、耳も、鼻も、舌も、身も、心も、それぞれが、貪り・怒り・愚かさという煩悩の火に燃えているのだと。

火そのものが悪いのではありません。

しかし、扱いを誤れば、自分をも他人をも焼き尽くしてしまう。

怒りや欲、嫉妬といった煩悩もまた同じです。

放っておけば心を燃やし尽くし、苦しみを生みます。

けれども、火は本来、暖をとり、光を与え、命を支えるものです。

それと同じように、煩悩もまた、生きる力の源であり、私たちを動かすエネルギーでもあります。

大切なのは、それを消そうとするのではなく、よく見つめ、上手に制御していくことです。

道元禅師は『正法眼蔵』の中で、「自己をならうは、自己をわするるなり」と説かれました。

自分を見つめるということは、執着にとらわれた“私”を少しずつ手放していくこと。

焚き火の炎を見つめながら、自分の心の中にも同じような火があることに気づく。

その火が静かに燃え尽きて、灰となったとき、そこに残るのは穏やかな温もりです。

秋の夜長、焚き火の炎のように、自分の心をそっと照らしてみてはいかがでしょうか。

静かに火を見つめるように、心を見つめる時間。それがきっと、日々の暮らしをやさしく照らす光になることでしょう。