「年々歳々 花相似たり 歳々年々 人同じからず」


春は出会いと別れの季節です。
この春学校を卒業したり、進学や就職を決められた方、
あるいは人事異動により新しい環境でスタートを切ることになった方も多いと思います。
卒業や入学、就職を決められたみなさん、おめでとうございます。
4月もいよいよ後半になり、それぞれの新天地での生活には慣れてこられた頃でしょうか。

さてこの春、京都を訪れる機会があり、
その足で市内のいくつかの寺社に参拝することができました。
タイミングがよく、平野神社の枝垂れ桜、仁和寺の御室桜など、各地の桜もちょうど満開で、
観光客のみなさんもその桜の美しさに見とれていました。
豊臣秀吉が花を愛でながら宴を催したとされる醍醐寺は京都の花見の起源ともされています。
わたしたち日本人は本当にお花見が大好きですね。
一方、その美しき花の群れを眺めていると、「今回はたまたま運がよかった」とも思いました。
一年のうちで桜が咲くのも、およそ二週間、どんなに長くても1か月持つか持たないか。
翌月、いや翌週に京都を訪れていたとしても、
この満開の姿を拝むことができなかったかもしれません。
咲く花の命はあっという間です。散るからこそに美しいとも言えます。
さきほど春は出会いと別れと申しましたが、桜はそれを象徴するような存在かと思います。
では、また来年満開の時期に見に来ればいいんじゃないかという話になりますが、
その花を眺める人々の命もまた永遠ではありません。

中国の唐の時代の詩人、劉希夷という人の詩に
「年々歳々 花相似たり」「歳々年々 人同じからず」とあります。
毎年毎年咲く花には変わりがないが、それを見る人の姿は毎年変わっていくという意味です。
今年の春に花見をすることができた人も、来年の春には確実にひとつ年を取るから、
同じように元気な姿で花見ができるという保証はありません。
たとえ体は元気であっても、引っ越しや転職・異動など、その人の立場や環境が変わるために、
もはや優雅にお花見どころではないということだってありえます。

いま花見のことを例に出しましたが、もの、人、命とを互いに結びつけるのはすべてご縁です。
人が亡くなるのも「生きる」という縁が尽きることです。
お釈迦様は80歳で涅槃に入られるにあたって、周りを囲むお弟子様たちに
「嘆くでない、悲しむでない。生まれるものは必ず滅び、
会う者は必ず離れるものだ。お前たちも努力して早く悟りを開き、
智慧の光をもって無知の闇を照らしなさい」と言われました。

今年の今日、この瞬間、命をいただき、お釈迦様のみ教えという勝縁をいただきながら
生きていること自体が素晴らしき幸せといえると思います。

一日の営みを終えて床に就くとき、「今日も素晴らしい一日だった」と振り返り、
朝の目覚めのときは「今日も一日を生きるご縁をいただいた」と感謝して過ごすことができるよう、
日々を充実させてまいりましょう。