『無常』

「世の中は 何にたとえん水鳥の 嘴(ハシ)振る露に 宿る月影」

この詩は道元禅師様がお詠みになった和歌であり、また梅花流詠讃歌「無常御詠歌」の歌詞にもなっております。

意訳をすれば、人の命のはかなさを何に喩えたらよいであろうか。この世の中を喩えるならば、水鳥が嘴(くちばし)を振る時にしたたる露(しずく)に、月の光が一瞬きらりと輝くような事であり、アッと言う間の一生、つかの間の命である。ということであり、まさにこの世の無常のはかなさをお示しになられております。
無常とは常(ツネ)が無いと書いて無常。当たり前の事が無く、世の中のありとあらゆるモノが日々変化をしていて、留まることはなく移り変わって行くことです。季節の移り変わり、体の衰え、愛する人との別れ、衰退や滅びの変化もあれば、成長や発展、人との出会いなど新たな命やモノを生み出してゆくという変化もあるでしょう。
私たちの人間の身体においても、人間の身体は約数十兆もの細胞でできていて、日々その細胞が消滅と再生を繰り返し、約三か月で全ての細胞が入れ替わると言われております。昨日の私と一見同じに見えますが、昨日と今日とでは少し違う人間になっているのです。このように毎日を同じような身体ですごしていると錯覚をしますが日々変化をし、私たちの身体をもって世の無常と生命の生死を体現しております。
私たちは父と母を縁としてこの世に生を授かり、今を生きています。医療の進歩や食料の安定、生活が豊かになった事により、平均寿命が延び、テレビや新聞各メディアでは人生百年時代などと言う言葉も聞くような時代になりました。しかし、長生きが幸せでしょうか。短命が不幸でしょうか。今は亡きあの人に合いたいと願っても会えない、あの時に戻りたいと願っても戻れない、いつどこでどうなるのかは、誰にもわからない、言うなれば引き返すことのできない一寸先は闇の現在進行形の無常の時を、私たちは生きているということです。
過去の経験や将来の目標を希望に生きる事ももちろん大事なことですが、後にも先にも行けない、一分後、一日後、一か月後、一年後の事はだれにもわからない、だからこそ、今、今、今、その時、その場所、その時を共に生きている人を大切に、一つの所を懸命に生きる一所懸命の繰り返しと積み重ねの証として、一つの人生を懸命に生きる、人生を一生懸命に生きる生き方となるではないでしょうか。

どれだけを生きたか、長さではなく、どう生きたか、大事なことは、しずくに光がきらりと輝くその瞬間ではないでしょうか。