心と向き合う時間

今年もあっという間に半年が過ぎ、暑い日々が続く季節となりました。
日差しが厳しい中で、境内の草取りなどの掃除は体に響くものがございます。
この度は、その「掃除」についてお話しさせて頂きます。

皆さんは、仏道修行といいますと坐禅や読経が思い浮かぶと思います。実は、
皆さんの生活に根付いている掃除も重要な修行のひとつです。僧侶が行う日常
の労働作業を作務(さむ)といいます。修行の心構えとして「一に作務、二に
勤行」という言葉がありまして、坐禅や読経と同じように重要な仏道修行とし
て行っています。修行場である僧堂において、修行僧達のお手本として相応し
い者が「首座」という役割に選ばれます。首座の行うべき事は沢山ありどれも
大切ですが、その中でも重要なのが「東司掃除」です。東司とはトイレの事を
指しています。

私はお寺の息子として生まれましたが、仏道修行について何も知らない状態
で僧堂に入りましたので、トイレ掃除と言えば何かの罰として行うというイメ
ージがありました。しかし首座と東司掃除を行う内に「誰もが必要としている
東司を掃除できるのはありがたいことなんだ」、「東司だけでなく生活の場を綺
麗にする機会を頂いている」と気づかされ、私の中で掃除に対する思いが変わ
る出来事となりました。今回はお釈迦様と掃除にまつわる話がありますのでご
紹介いたします。

その昔、お釈迦様のお弟子のひとりに物忘れがひどく自分の名前もわすれて
しまうチューダパンタカ、という方がおりました。お釈迦様の教えをなかなか
覚えられず、ほかの修行者ともうまく関係が築けていませんでした。
そんな時、お釈迦様は箒を与え、ただひたすらに一心に掃除を行いなさい、
と伝えました。チューダパンタカは、毎日毎日一心に掃除をしていました。と
ころが、毎日掃除をしているにも関わらず、ふと気づくと思いもよらない所に
塵や汚れが溜まっていることに気づきます。綺麗にしたつもりでも、いつの間
にかある汚れ。それは「自分の心の中を映している」、と気づき悟りに達しま
した。

お釈迦様が説かれた掃除とは、心を磨き 心の中の塵や汚れを払う、大切な
仏道修行なのです。
人の心とは複雑なものです。喜怒哀楽とあるように、その時の状況によって
コロコロと変わります。心の中の汚れ、言い換えますと「負の感情」といえる
でしょう。その「負の感情」は誰もが経験があると思います。
心が汚れていると身の回りが見えなくなってしまいがちです。そんな時、私
は心を落ち着かせるために一心に掃除をする、という事を心がけています。掃
除をしていると、おのずと自分と向き合い、自らの行いを振り返り反省する時
間となっています。

ふと気づけばそこにある心の中の汚れ。完全に無くす事は出来ないかもしれ
ません。しかし、無くす事は出来なくても、見て見ぬふりをせず気づいた時に
取り除こうとする事は出来ると思います。心の中の汚れてしまった部分に気づ
き、改めようとする事がより良い生き方を送る術のひとつであるはずです。

日々の生活に根付いた「掃除」。皆さんもその時間を自分の心と向き合う時
間としてみては如何でしょうか。