「仏道を学ぶ」

日本には道のつく様々なお稽古事、習い事があります。
茶道・書道・華道・柔道・剣道等、何事も見様見真似で始まり、
回数を重ねいくうちにやがて身につき、
頭で考えずとも作法に則り所作を行ずる事が出来ます。
柔道・剣道においては、勝敗のみならず、相手を敬い、
有名な選手や先輩のようになりたいと憧れ真似をします。

仏道も同じように真似をする事から始まります。
学ぶという言葉は、真似ぶ・真似る・真似をするという言葉が語源です。
お釈迦さまの言葉、行動を真似る。「仏道を学ぶ」という信仰の実践です。
信仰という言葉を繙くと、経験や知識を超えた存在を信頼し、
自己を委ねる自覚的な態度、とあります。いわゆるそれが南無の姿です。

お釈迦さまは、私達と同じように人として生まれ、苦しみを持たれておりました。
人は何故苦しむのだろうか。生老病死の苦しみからの解放を求め、
何不自由のない王子の暮らしを捨てて出家されます。
それから6年間難行苦行をつまれますが、問題の解決には至らなかった。
そこで、身も心も整え座禅瞑想に入り悟りを得られます。
お悟りの内容はいくつかありますが、この世の全てのものは移り変わりゆく無常の理、
そして苦しみから免れる生き方を示されました。

私達の心は、貪(むさぼり)瞋(いかり)痴(おろかさ)といった自我に支配されています。
満たされぬ心、何でも思い通りにしようとする心が自分自身を苦しめている。
無常の世の中と知りながら健康な状態、幸せな状態がいつまでも続くと勘違いをしています。
自分には、そのまさかが来ない、死を忘れると生がぼやけて来る。
修証義の冒頭に「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」とあります。
死を捉えて生を明らかにする。つまりは死を見つめるとどう生きるべきかが見えてくる。
無常を感じ無我に目覚め、お釈迦様のようになりたいと憧れ真似をする。
人間の理想像とし、私達の生きる道しるべとします。

仏道を学ぶことは、生活の軌道修正となり、その生き方が尊いものとなります。
実際に仏になる事はできないけれど、一体となる事はできる。

「我が心 仏の心 そのままに 我が身そのまま 仏の身なり」

この世を生きる仏の姿を共に実践してまいりましょう。