「親孝行」

毎年5月の第2日曜日は母の日、6月の第3日曜日は父の日です。
今年も何か贈り物などをされた、又はする予定の方も少なくないのではないでしょうか?
私自身もこの時期はお檀家さんと親孝行の話をすることがよくあります。

その際こんなお声を聴きます。「親孝行したい時には親は無し。」
若い頃は親からの愛情や、お世話を頂く事を当たり前のように思い、その有難さに気づかないが、いざ自分が親の立場になる、若しくは近づくと親の苦労や考えも分かってきて親孝行という気持ちも生まれてきます。しかしその時には親と死別してしまい親孝行がしたくてもできないという後悔を現す言葉です。しかし本当にそうでしょうか?

私は亡くなった後もできる親孝行があると思います。それは、無くなった親を『思い出す』という事です。
私自身も父との死別を経験しました。生前、離れて暮らす時間も多く、死後の会えない時間と生前の会わない時間に大きな差は無いように感じます。しかし大きく変わった事、それは思い出す時間です。
父の好きな食べ物、好きな場所、好きな花、など今までは何とも思わなかった物を通して亡くなった父を思い出す事が増えました。

「人は亡くなったらどこに行くのですか?」という質問を頂く事があります。
科学的な答えは無く難しい質問ですが、私はこう答えます。
「故人様の事を知る皆様の心の中ですよ。」
「そして心の中にいる故人様が色々な物を通してこれからもメッセージや教えを授けてくれます。だから思い出す事を止めないでください」
私の父も私の心の中にいて、好きだった物や場所などを通して私に何か伝えているのかな?だから生前より思い出す時間は増えたように感じます。
姿・形が見えなくても、声が聴けなくても思い出の中からこれからも教え、導きを授けてくれています。
このように思い出す事で、もう一つ気づけた事がありました。
それは父からの恩です。これは形あるものでは無く、生前に父がお世話になった方からの想い出話からです。私の知らない一面や、ぶつかり合う事が多かった中でも、実は心配してくれたり、私の事を思ってくれていた事。この恩に気が付くことで、「まだ何も教わって無いのに、まだまだやり残した事があるのに」という後悔の念から「たくさんの事を教えてもらい、たくさんの善き時間を共有させてもらったな」という感謝の想いへと考えが変わり救われました。
自分にとっては何気ない思い出話でも、その話を共有する事で誰かの救いになる事がある。
だから思い出す事に留まらず、故人様の想い出を共有し継承する。
これは故人様からの法話ではないでしょうか?

仏教では、「恩」を非常に大切にします。
「恩」という字は、原因の「因」の下に「心」とありますように、因を知る心、ということです。
今の自分があるのは、どなたのおかげなのか。自覚がないだけで、自分の幸せを陰ながら願い、手助けをしてくれている人がいるかもしれない。
今の私があるのはどなたのおかげなのかを知ること。
親が亡くなった後でも思い出し、思い出を共有・継承し、改めて恩を知り感謝する。これは立派な親孝行と言えるのではないでしょうか。
ですが生前にしかできない親孝行もある事も事実です。
その中の1つが触れあう事です。最後にご両親と手を繋いだのはいつでしょう?
葬儀の際故人様のお顔を撫でたり、手を握られている場面を目にする事があります。
ですがお互いの温もりを感じながら触れある事は生きているうちしかできません。
そして同じ時間・空間を共有する事も生きているうちしかできません。
贈り物も良いですが、時には直接会って手を握ったり、肩を撫でてあげる事、照れくさいかもしれませんが、親からするととても嬉しい事かもしれません。

これからもできる親孝行、今しかできない親孝行。まずはゆっくり両親の事を考える事から始めてみるのもいいかもしれません。