一日に一度は

 

大本山永平寺をお開きになられました道元禅師様は、正法眼蔵行持の巻において次のようにお示しであります。

~壮齢(そうれい)・耄及(もうぎゅう)をかへりみることなかれ、学(がく)道(どう)究(ぐう)弁(べん)を一志すべし。~

壮齢とは年齢が若い、耄及は高齢という意味でありますので、この一文を分かりやすく言い換えますと、壮齢(若い)か、耄及(老齢)かということを気にするのではなく、学道(修行)に力を尽くし究めることを志しなさい。となります。

いきなり、(仏道・修行)というと僧侶だけが行う特別なもの、と感じてしまわれるかもしれませんが、仏教徒として、また、曹洞宗寺院の檀信徒として、お釈迦様の説かれた無常(この世のものは移り変わり、常なるものは無い)という御教えを心にとめて日々の生活を送ることが仏道修行に通ずるのです。

ただ、いつなんどきも、無常の御教えを心にとめて生活が出来ればよろしいのですが、忙しい日々の生活において、気持ち的に落ち込んでしまったり、あるいはイライラして感情的になってしまったり、心ここに非ずといった状態で、日々を過ごしてしまうというようなご経験、少なからずおありではないでしょうか。私にも多々ございます。

そこで、無常の御教えを心にとめて生きる第一歩として、一日に一度はお仏壇にむかい、心を落ち着け、無常の御教えを自分の心に取り戻す時間を作っていただきたい。そして、一日一日続けていっていただきたいのです。

頭で考え、分かったような気になってしまいがちですが、自らの心と身体で実践することが重要です。

いつ終わりがくるかは分かりませんが、いつかは終わるそれぞれの命でございます。だからこそ、「壮齢・耄及をかへりみることなかれ、学道究弁を一志すべし。」まだ早すぎるということも、もう遅すぎるということもありません。いまから、ここから、一日に一度は自分の身体と心をお仏壇に向けていただき、お釈迦様と向き合っていただくことで、お釈迦様の説かれた無常の御教えを心にとめ、自分の命の重み、ありがたさを再認識して一日一日を大切に過ごしていただければ幸いです。