安心立命

皆さんが、手を合わせる場面は、どんな時でしょうか。例えば、私たちは、不安や心配があるとき、思わず神や仏に手を合わせます。もちろん、お仏壇、神社仏閣等に手を合わせるのは、不安や心配事がある時だけではありません。感謝を伝えるとき、何か報告する際にも手を合わせます。

私は毎日お檀家さんのお宅へ、ご供養にお伺いしておりますが、その際には皆さん一緒に手を合わせたり、そして時には一緒にお経をお唱えしております。私と一緒にお仏壇の前で自然と手を合わせて下さいます。これは私たちを見守って下さっている、お釈迦さまそしてご先祖さまへの感謝の姿であると思います。

信仰の何が一番大切なことであるかと考えますと、私は「安心立命(あんじんりゅうみょう)」にあると思います。安心(あんじん)とは、仏の教えによって心が安らぎを得ることであります。つまりこの「安心立命」とはどんな意味かと申しますと、長い人生を送る上で、仏の教えを中心に据えることで、他のものに心動かされず、心安らかに地に足をつけて生きていくということです。

私はご縁があって僧侶の道を歩み始めました。大本山總持寺にて修行ののち、故郷のお寺でお檀家さんのお宅へお伺いするようになった時のお話しです。その頃の私は「和尚さんはお坊さんになりたてなのにお経を覚えていて凄いですね」って言われるのが嬉しくて、お経の本は見ないでお唱えをしておりました。

私がお仏壇の前に座り、お唱えを始めますと、お檀家さんも一緒にお仏壇の前に座り、ただひたすら手を合わせる方、また、お経の本を持って、大きな声でお唱えをされる方、色々な方がおられます。でも共通しているのは、ご供養が終わった際に「今日もありがとうございました。また来月もお願いしますね。」と柔らかな表情で私に声を掛けて下さるのです。

私は、お檀家さんが私と一緒に手を合わせる姿、お経を一緒にお唱えする姿、お坊さんと共に仏道を歩みたいという気持ちに、次第に共感を覚えるようになりました。と同時に、お檀家さんに凄いと思われたい、ただ見栄を張っていただけの自分の恥ずかしい姿に気がつきました。自分だけ、お坊さんだけの信仰になってしまっていました。今は、「一緒に手を合わせましょう」とお声掛けしたり、お檀家さんの声も聞きながらお唱えするペースを合わせたりするなど、一緒にということを心掛けています。

お釈迦さまを拠りどころにし、お釈迦さまのみ教えを拠りどころとし、信仰を同じくする仲間と手を携えて生きていく。この生き方を行っていくことが「安心立命」につながるのではなかろうかと思います。