「じごく」

朝晩の冷え込みが日増しに強くなり、年末に向かって
何かと気忙しい時期になってまいりました。

さて、今回は「じごく」についてお話させていただきます。
皆さんは「じごく」と聞いてどんなことが思い浮かびますか?

罪を犯した人が鬼に拷問をうける、恐ろしい死後の世界でしょうか?
または閻魔大王の怖い顔でしょうか?はたまた、某温泉県の地獄めぐりでしょうか?

実は「じごく」とは、死後の世界の話ではなく「今ここ、この場所、この身心」の上に、
いつでもどこでも一瞬で現れるものなのです。

どういう事かと申しますと、先日聴いていたラジオで次のような話題がありました。
とある舞台俳優の方が講演の最中、最前列の真ん中で、
眼を閉じて下を向いているお客さんが目に入ったそうです。
よりにもよって一番目につく場所ですから、何とかしてその方が目を開けて、
顔を上げて演劇を見てもらえるように、その俳優さんはいつもより大きな声で、
いつもより大きな身のこなしで何とかその方の気を引こうと必死に演じられたそうです。

しかし、結局とうとう最後までその方の姿勢が変わることは無かったそうです。

さて、ではなぜその方はせっかくの舞台を、終始目を閉じて顔を上げなかったのでしょうか?

演劇が終わり、その方が退席される様子を舞台の袖からこっそり見ていた
俳優さんは一瞬にして全身の血の気が引き、顔が真っ青になったそうです。

終始うつ向いていたその方の手には、白いステッキが握られていたからです。

俳優さんは、眼がみえなくとも全身全霊で舞台を感じ取ろうと、
うつむいて全神経を集中していたその方を、てっきり眠り込んでいる失礼な客だと思い込み、
必死になって演じていた事を激しく後悔されたそうです。

このように私たちは知らず知らず、無意識のうちに自分の勝手な思い込みやイメージ、
先入観など頭の中で創り上げた「妄想」で他人や世の中を判断し、評価して、
その結果自分で自分を苦しめてしまっているのです。

「自ら」の「業」で「苦しむ」状態、これを仏教では「自業苦(じごく)」と申します。

「業」というのは「身と口と心」による行いのことで、特に「心」の在り方が
「身と口」に現れてきますので、仏教ではいかに「心」を調えるかに重点をおいています。

私たちは苦しみを感じた際に、ついつい他人や世の中のせいにしてしまいますが、
一番自分を苦しめているのは実は自分だった、
ということに気が付かれたのがお釈迦さまなのです。

12月8日はお釈迦さまがお悟りを開かれた日、「成道会」です。
お釈迦さまは、釈迦族の王子として生まれ、地位や名誉、財産など、
何不自由無い快楽の生活に嫌気がさして出家されました。

その後、6年間にも及ぶ難行苦行を究められましたが、そのような両極端な生き方では
真の安寧には至らないと気が付かれ、大きな木の下で1人静かに足を組み坐られました。
そして8日目の朝、遂に真の安寧に辿りつかれたのです。

この身を大地にあずけてどっしりと坐り、身体を適切な状態に調えると、
自ずと呼吸が調います。すると自ずから心も安寧に調います。
この在り方を「坐禅」と申します。

仏教は約2500年前のお釈迦さまの「坐禅」から始まった教えであり、
それを現代の私たちも実践することが出来るのです。

この世界の「現実」と、頭の中の「妄想」との「差を取る」、「さとり」の行である
「坐禅」をとおして豊かな「智慧」を養い、極めて楽に、即ち「極楽」に生きてまいりましょう。